調べたことまとめ

歴史(主に日本史)について調べたことをまとめます。

中山修輔(信安)について

 幕末から明治に生きた幕臣にして茨城県権令、中山修輔(中山信安)について長らく調べできたので、そのまとめを行うための記事。
 これまでの調査をひたすらに書き連ねたtogetterまとめはこちら。

togetter.com

 

 資料はいろいろあるものの最初から引用を細かくやるとそれだけで気が萎えそうなので、まずは把握できている文章を乱雑に書き連ね、それを後から清書する方向。もしかしたら誰か、自分よりもはるかに中山信安に関する情報を知りたい人がいるかもしれないので。

 

1人物の概要
 中山信安。幕末から明治を生きたこの人物をご存じだろうか。江戸幕府幕臣であり、戊辰戦争時には佐渡奉行組頭として佐渡を戦火から守った人物であり、明治になっては新治県権令、茨城県権令として5年近くの県政を担った政治家でもある。
 歴史の教科書でもおそらく名前の登場しない人物であるが、筆者である自分は佐渡の歴史を調べるうちにとある縁からこの中山信安について知り、その生涯について調べるうちに様々な情報を知ることができた。が、インターネットを含めて歴史雑誌や明治幕末の人物辞典等においても誤解や誤りが多々見られる人物であるため、その事蹟と共に生涯についての情報をまとめ、ここに列記するものである。

 本文におけるさまざまな記述の出典についてはできる限り各項目の文末に記載している。また現段階では確証のない推測や、精査しきれていない情報についても述べるため、注意を願いたい。(未達成)

 

 

2中山信安の経歴
 中山信安。明治幕末人名辞典によれば、丹治氏の旗本中山家1150石の幕臣であり、旧名は修輔(修助とも)。天保3年7月27日(1832年8月22日)生まれ、 明治33年(1900年)6月19日没。妻は丹後宮津の嵯峨根良吉の妹、幸子である。
 漢学を学び、後に緒方洪庵に師事して開国論を唱えた。その後幕臣として神奈川奉行所の定番役や富士見御宝蔵番、新徴組支配定役などを経て、佐渡奉行組頭に就任。戊辰戦争の際には佐渡を退去した佐渡奉行鈴木重嶺にかわって奉行所を差配し、佐幕を掲げて佐渡島内の武士による迅雷隊を組織。協力を求める会津藩士などの来島に対応した。一方で新政府に対して働きかけ、佐渡県権判事の辞令を受けて島内の治安維持に務める。明治2年に越後符権大参事である奥平謙輔が来島すると、信安は奥平に統治を引き継ぎ、島を退去する。
 その後は明治5年に新治県の参事に任じられ、そのまま権令を務め、合併して誕生した茨城県の権令となる。明治10年、地租改正に伴って発生した那珂郡の大規模な地租改正一揆に対し、鎮圧のために囚人を解放して行った鎮圧が問題視され、権令を免官となった。
 その後、明治13年に長野県の少書記官として現地に赴任。長野県権令楢崎寛直の元で政務に携わるが、翌明治14年にはその職を辞している。以後は出仕することなく生涯を終えた。

 ……というような部分が、中山信安に関して記載される一般的な経歴である。しかし信安に関しての経歴にはこれだけには留まらない、極めて希有な話が多くある。

 

 

2-1
・信安の出自について
 先に挙げたとおり、中山信安の出自については旗本中山家1150石の8代目であるという記載があるが、実のところ中山信安の出生については様々な記載が入り乱れており、しかもそれらに似通った部分がまったくないという謎がある。
 茨城権令就任時には静岡藩士、あるい浜松藩士との記載が見られる。また、佐渡年代記における佐渡組頭就任時の経歴には、岡崎水野家5000石の家臣、川崎平五郎の子と記載されている。さらに荒川村史やその全身である白川村の事蹟を述べた資料においては、信安を当地の出身であるとして秩父郡白川村字白久、医師良助の子としている。
 これらが具体的に何を示しているか、比較していこう。

・旗本中山家(1150石)
 信安の墓は谷中霊園にあり、歴代の旗本中山家1150石(本姓丹治、中山勘右衛門)の墓碑と一緒に並んでいる。墓誌には信安が中山家の八代目であり、父は六代目の中山勘右衛門信珉(のぶたみ)の子であることが記されている。旗本中山家は上田七本槍中山照守から分かれた家であり、愛宕下に武家屋敷を構え、小納戸衆として歴代の武鑑に名が見える。また、水戸藩附家老の中山信吉は照守の弟となる。
 大槻如電の新徴組に関する記事において信安は「中山内匠頭の庶子」とされており、これらから旗本中山家の出自であることは明らかであるように思われる。
 しかし、墓誌においては信珉とその妻はそれぞれ孝(なきちち)妣(なきはは)と書かれており、信安の生年である天保3年より早く信珉は没していることが同じく中山家累代の墓誌から読み取ることができる。つまり、信安は信珉の死後に生まれており、少なくとも信珉の没後に中山家の養子となったことが明らかである。
 旗本中山家は天保 年に勘右衛門信敏(信珉子)が受け継いで七代目となり、さらに安政5年の12月に中山錦之助がこれを継いでいる記録がある。また中山修助は元治元年の佐渡奉行組頭を拝命時、勘右衛門家とは別枠の家として武鑑に250石で掲載されており、この時点でも別枠の家であったことが明らかである。従って、旗本中山家八代目であることは以下に述べるような信安の出自とは矛盾していない。

・水野家5000石 川崎平五郎の子、川崎平蔵孫
 佐渡年代記における、佐渡に組頭として赴任した中山修助の経歴として掲載されている。水野家5000石は岡崎市本郷近辺にあった旗本領を治める家であり、この時代の当主水野主膳忠順は、天保の改革で有名な水野忠邦の弟に当たる。新編岡崎市史によれば、この旗本水野家において江戸に構えた陣屋において筆頭家老の扱いにあったのが川崎平蔵であり「給人」として給金4両2分の二人扶持、息子の川崎平五郎ともども岡崎の本領とやりとりをしていた記録が残る。
 佐渡年代記によれば、信安が佐渡に赴任した元治元年の時点で川崎平蔵、平五郎は共に没している旨の記載があり、事実として元治元年以降に二者の名前で出された文献は確認できない。
 また、旗本水野家の江戸屋敷は中山家の斜向かいに位置しており、距離的にはお隣さんという位置づけであった。
 この川崎平五郎の子という出自は佐渡叢書にまとめられたことから、それを出典とした司馬遼太郎の「胡蝶の夢」に記載され、一定の知名度を得ているようだ。

・深川御徒士・中山桂輔倅
 緒方洪庵適塾の姓名録に記載のある「中山八郎」の経歴。この中山八郎が信安であるかについての検討は後述するが、これによれば上記2つとはまったく異なり、深川にあった御徒士(将軍の警護を徒歩で行う下級武士)の出自であるとしている。適塾の姓名簿はその性質上、入塾するに当たって本人が自分の出自や経歴を記載したものであると考えられるため、他者の潤筆が含まれているとは考えいにくいものである。無論、間違っても口にできない裏事情を伏せた表向きの経歴という可能性はあるが……
 中山桂輔に関する資料はまったく見つかっていないが、修輔と同じ「輔」の字を使っていることから、少なくとも川崎平五郎の子や信珉の庶子という話よりは繋がりを感じさせる記載である。また中山八郎が適塾を退塾してむかった越前大野藩の洋学館の入校記録にも同じ「江戸深川御徒組屋敷」の記載がある。
 旗本の庶子や水野主膳5000石の給人の子であるよりは、緒方洪庵の元で蘭学を学ぶ立場としては適当であるようにも思われる。

静岡藩士/浜松藩
 新治県権令、また後の茨城県権令の就任時などに見られる記録。一見信安が東海出身であるようにも見える記載であるが、まず「静岡藩」は明治2年に徳川家達藩知事になる課程で改名された名前であり、それ以前の静岡は徳川忠長の改易の寛永9年(1632年)以来天領であった。
 浜松藩については譜代の大名が頻繁に入れ替わったものであり、同じく明治2年に家達が藩主となったときに静岡藩に組み入れられている。直前の藩主は井上正直
 現在のところ、信安が浜松や静岡で生まれ育ったという資料は見つかっていないものの、彼がここで生まれ育った可能性はゼロではない。しかし信安は佐渡奉行組頭を解任された後、明治3年に後の静岡県権令・関口隆吉らの静岡藩藩士とともに戊辰戦争の降伏人を引き取るために箱館にむかっていることが確認できるため、権令に就任する直前の経歴として、所属(あるいは臨時で)静岡藩に籍を置いてたことが記載されたと考える方が自然ではないだろうか。

秩父郡白川村白久・医師良助の息子
 秩父郡白川村(後の荒川村)の人物を記した小学訓話資料、また荒川村誌などに記載がある。もともと白川村の名家であった新井氏の出であり、中山に住んだことでこれを苗字とした家であり、医師である良助の長男として生まれた。幼名は藤太郎。新井重右衛門の開いていた塾で漢学などを学んだ後、家業である医師を嫌って家督を弟の谷三郎に譲って江戸に出、蘭学に興味を持ち、やがて酒井左衛門尉に見出されて佐渡奉行となり、後に茨城権令になったが租税の問題で罷免されたという記載がある。
 大蔵省に出仕したり、慶応三年に後藤象二郎の起こした政権返上運動に柘植宗三とともに奔走したという出典不明の記載が混じるものの、全体としては信安の経歴と合致している。荒川村史等にも茨城権令となった「山中信安」(誤字か?)が新井重右衛門の門下より出たという記載があるなど、まったく無関係の人物が誤解で記載されているとは思いがたく、一定の信憑性のあるものと考えていいだろう。
 父の医師良助については、三峯神社日鑑 7: 自弘化五年至安政三年に「白久村医師良助」「白久新井良助」「新井良輔」が三峯神社に登山した記録が確認でき、新井氏の出であるという記載を合わせて「新井良輔」の息子「新井(中山)修輔」であったことが推測できる。なお、修輔が家督を譲ったという「谷三郎」については、荒川村史等に「小林谷三郎」が白久村の村長新井重右衛門の名とともに複数回登場するので、これが該当する可能性が考えられる。


適塾以前
 信安の出自については現在の段階では確定できる情報はないものの、青年時代になって江戸に出て学び、その後に京都に登って緒方洪庵適塾で学んだことがわかっている。
 まず江戸における信安の動向として、大槻如電回顧録は「はじめ大槻盤渓に学び、東條一堂に教えを受け、また千葉周作の門人であった」と語っている。これは如電自身が10歳頃の思い出として回顧しているもので、江戸にいた若き日の信安の動向を伝えている貴重な証言である。
 大槻盤渓は蘭学者である大槻玄沢の子で、漢学者であるとともに早い時期から蘭学、開国論などを唱えていた。高島秋帆に指導を受け、西洋砲術にも通じていたことが知られている。東條一堂は儒学者であり、神田お玉ヶ池に私塾である瑶池塾を開いて儒学や詩文を教えていた。この瑶池塾の隣に面していたのが千葉周作玄武館(千葉道場)であり、双方に通って文武を学んでいた若きサムライは数多くいた。後に浪士組の献策を行った清河八郎もその中の1人で、如電の回顧録は信安と清河が同輩であったことを伝えている。
 ただ、これらはいずれも塾生名簿等で信安の名前は確認できず、在籍の事実は定かではない。
 成功模範録などでは東條一堂ではなく東条琴台に学んだとされているものが多い。
 琴台は東条享哲の三男として芝宇田川町に生まれた儒学者であるが、嘉永3年(1850年)、海防論を説いた『伊豆七島図考』が幕府に咎められ、高田藩邸に幽閉となった。嘉永4年(1851年)5月解除され、夏榊原政愛の命で越後国高田城下に移されていることから、信安が学んだとすれば嘉永3年までのことになる。
 また、伊東玄朴に学んだとしている資料もある。玄朴が1858年に設立した種痘所も神田お玉ヶ池にあり、仮に信安が千葉道場と瑶池塾に通っていたのなら、玄朴に学ぶ機会があったことはそう不自然ではないだろう。信安の思想がどのようなものであったかは定かではないが、大槻磐渓は早い時期から西洋学問を取り入れていた人物であり、信安がこの後京都に登って緒方洪庵の元で学んでいることを考え合わせると、信安は柔軟に海外の教えを受け入れる素地があったと考えるのは不自然ではないように思われる。あるいは、白久村の医師の倅であるという出自はこれらに結びつくのかもしれない。
 千葉道場に通っていたことを示す史料もないが、信安は後に富士見宝蔵番や浪士組調役、新徴組定役などを任じられ、佐渡にあっては地役人たちの暴走を押さえる目的で迅雷隊を組織したり、明治になっては剣槍柔術永続社なる結社の設立に副社長として名を連ねるなど、剣術に関しては一通りの関心をもっていた様子が見受けられる。少なくとも剣の腕前はからっきしという人物にこれらの役割が担えるかというと、疑問を呈さざるを得ないのではないか。

 

 

適塾時代
 信安は緒方洪庵適塾で学んだことが経歴には記載されているが、適々斎塾姓名録に信安の名前は見受けられない。しかし明治7年の緒方洪庵の10回忌の名簿に福澤諭吉、長与専斎といった塾生たちに名前を連ね、ある史料では緒方洪庵門下の政治家として記録されている。
 また、後に信安の養子となった尺秀三郎が地震の少年時代を述懐する随感録において、信安が適塾時代の福沢諭吉が沢庵の尻尾を囓る話などで福澤の人となりに語ったことに言及してるなど、複数の史料から在塾していたことはほぼ疑いがないと言っていいだろう。
 信安と共に適塾に在塾していたのが宮津の嵯峨根良吉である。信安は後に良吉の妹である幸子と結婚した。信安は良吉は以後も家族ぐるみで親交を続け、薩摩で良吉が没した後はその遺児である不二郎と鹿之助を引き取り、江戸の自宅で養育している。鹿之助は信安の養子となったが、五歳で夭折している。
 さて、この適塾在塾時代を語る上で外すことができないのが適塾生の「中山八郎」である。安政二年に入塾したこの中山八郎は、江戸深川御徒組屋敷・中山桂輔倅という経歴である。中山桂輔は安政3年に適塾を退塾し、越前大野藩の洋学館に入校している。これに先駆け、嵯峨根良吉も洋学館に入校しているのだ。さらに、洋学館の学業記録では中山八郎の在籍地が宮津の蓬嶋郡とされていて、これは嵯峨根良吉の出身地である。深川という出身地はどこかにいってしまっている。
 洋学館に入校した信安だが、わずか二週間後に「親の大病につき」退校している。これと同日に嵯峨根良吉も「急用につき退校」していることから、二人の共通の親族が病を得たことで退校した経緯が推測できる。嵯峨根良吉の父嵯峨根重季は嘉永6年に没しており、信安が「親」と呼べ、かつ嵯峨根良吉が同時に退校する理由としては、重季の妻、廉子であった可能性が考えられる。
 中山八郎に関する記録は、緒方塾への入塾と大野洋学館への入校・退校記録しかのこされておらず、その以前/以後の足取りはまったく不明である。適塾への入塾時期を考えると、1855年11月11日(安政2年10月2日)に江戸で安政の大地震が発生し、東條一堂の瑶池塾はこの地震で倒壊し、その跡地は千葉道場が吸収する形で再建されており、信安がこれを機会に上京の決意を固めたと考えるのはそこまで突飛な発想ではないだろう。雑誌「適塾」では塾生調査において二者を同一人物としては扱っていないが、さまざまな経歴を鑑みるに、中山八郎は中山信安であると断定してしまっても良いのではないかと思われる。
 福沢諭吉伝を著した富田成文はこの中で中山信安を中山八郎であると著しており、中央公論においても「中山八郎とあるの新調組取締である中山信安である」と断言している。これも、元となる史料は確認できていないが、少なくとも福澤諭吉研究において第一人者であった富田は中山信安=中山八郎であることを断言できる知識があったということになろう。

 嵯峨根良吉については「」が詳しくその動向を記しているが、それらに記載のない項目としてこの後、江馬天江を通じて写真を学んでいたと思われる時期が江馬務の著作に残されており、長崎で良吉が撮影したという写真技術は、ここで学んでいた可能性がある。
 また、江戸で燻っていた良吉が己を売り込む形で薩摩へむかった記録が「宮津某」として紹介されている。

 

5浪士組取締
 元治元年、清川八郎の献策によって浪士組が結成される。
 浪士組は文久3年(1863年)2月の江戸幕府将軍・徳川家茂上洛にあわせて、将軍警護のために作られた組織であった。攘夷断行、罪の大赦、文武に秀でたものを重用する名目で募集された。
 浪士組は2月8日に江戸を出発。23日には京都に到着する。しかし清河八郎は浪士組全員の署名が記された建白書を調停へと提出し、浪士組を幕府から切り離し、急進的な尊皇活動に利用してしまうことを目論んでいた。これには隊内でも異論が起き、3月3日に浪士組は江戸への帰還命令が出される。数度の延期を挟み、浪士組は13日に江戸へと出発した。この時、近藤勇芹沢鴨土方歳三らが隊を離れ、後の新撰組となる。
 さて、この浪士組の名簿において中山修輔の名前を見つけることができる。浪士組の参加者には複数の資料があり、中には情報が一致していないものも存在しているが、尽忠報国勇士姓名録、上京勇士姓名録などがある。
 といっても、信安は労使としてこれに参加したわけではないようだ。 浪士取締役の鵜殿鳩翁を筆頭に並ぶ、浪士取扱を役目とした幕府側の人員として、調役 山内八郎 中山修助の名が確認できる。上京勇士姓名録にも芸術掛として中山修助の名があるが、これは6月17日よりの新徴組支配に関する記載であると思われる。なお、中山らの名前に関する朱筆として「以上は幕臣にして、幹部、役附のほかは旗本にあらず。与力あり、御家人と称する御目見得以下多し」とある。
 なお、適塾および大野藩洋学館を退校した安政3年以降、この文久3年までの信安の足跡を印している史料は現在のところ見つかっていない。佐渡年代記などではこれに前後して富士見御蔵番、神奈川奉行の定番役などを短期間で経たと記載されている。
 浪士組のメンバーではなく、管理側の人員だったためか、土方歳三芹沢鴨が名を残す上洛中の宿帳には中山の名前は見当たらない。果たして信安が彼らと行動を共にして江戸と京都を往復したのかは定かではないが、浪士取締という役柄上、江戸に残ってのほほんとしていたともいささか思いにくところである。


>謎1 清川八郎暗殺の「中山周助」について
 江戸へと呼び戻された浪士組であったが、4月13日に清河八郎幕臣佐々木只三郎・窪田泉太郎ほかによって暗殺される。これを契機に浪士組は庄内藩預かりの江戸市中の警護組織、新徴組へと再編されることになる。
 この清河八郎の最後については、実行者に諸説があるのだが、史談会速記録において清河を暗殺した六人の名前が挙げられており、この中に「中山周助」なる人物が登場する。この「中山周助」は史談会速記録が幕末事蹟における重要な証言集であったため、実行犯の6人の名前は海音寺潮五郎の小説などに書かれ、以後の文献、明治暗殺録などにも名前が登場する。なおこの「中山周助」が清河八郎の暗殺にどう関与したかは史談会速記録の中でもほとんど述べられておらず、多くは逃げ道を塞いだと言ったような扱いである。
 佐渡政党史稿が発刊されたとき、佐渡を戦火から守った佐渡奉行組頭・中山修輔についても大きく紙面を割いて取り上げられた。その中でこの清河八郎暗殺に関与したという「中山周助」が中山修輔であったかと議論があり、問い合わせが行われたことが記されている。佐渡政党史稿では詳しい情報はわからなかったものの、回答としては「本人であるかもしれない」という記載がある。
 市村残月「前将軍としての慶喜卿」などでは、信安が幕臣であり剣の熟達者であったことから、山岡鉄舟や松岡萬と共に浪士たちを抑え込む目的で選抜されたといったような記載も見られる。千葉周作の門人であったという話や、歴史談義などから東條一堂のもとで清河と同輩であったという経緯を信じるのであれば、信安は清川八郎を抑える目的で浪士組調役に選ばれたと考えることもできるだろう。

 

 

6新徴組取調役
 江戸において再編された新徴組にあって、信安はそのまま新徴組の取調役を任じられた。5月18日の河津野三助(三郎太郎)を取締とする名簿において、取調役 同役出下役の中に中山修助の名がある。この後、信安は6月17日には取調役に就任している。この後、修助の名前は公文書などには見当たらないものの、翌元治元年5月に組士全てが庄内藩士になったときに調役の中山修輔が役替えとなったことが記載されている。

 新徴組時代の中山信安において、主立った活躍の記録は公的文書からは確認できないのだが、一方で関連人物の伝記等から興味深い話がいくつもみつかる。そしてその多くが、水戸天狗党に参加した元盛岡藩士、山田一郎(横田博)に関わるものである。
 山田一郎については多くの文献において天狗党に参加し商家を襲ったり脅したりして大金を巻き上げた非道の人物として語られることが多いが、山田町史、山田一郎伝などがこれについて異論を唱え、歴史研究660号において小高旭之氏が詳細な検討を行っている。

 

>謎2 不逞攘夷浪士山田一郎を「処分」した新徴組隊長中山修輔
 山田一郎は元治元年5月に、後の朋輩となる木村久乃丞、岩城太熊と共に新徴組の世話役、剣術指南などの役割として参加している。(根岸友山「御用留」)
 この山田一郎らの攘夷志士が、横浜にある外国人向けの商家に対して、外国人と商売をするとはけしからんと押しかけるという事件を起こしていた。この時、呉服商の堀越安平が彼らと相対し、一歩も引かずに商人が外国から金を儲けるのもまた戦であると道理を説いた。山田らはそれに感服し、堀越と和解。堀越もまた1年後には横浜の店を閉めると約束した。その後、山田ら攘夷志士は捕縛されてしまったが、堀越安平は約束を守って横浜の支店を閉めたという。時に文久三年のことであるという。
 この話は堀越安平の逸話として、彼の没年である明治18年に農商工公報に掲載されたものであり、日本人名辞書、慶應義塾学報、近世上毛偉人伝などに転載されている。それ単体では中山信安には関わりのない話のように思えるが、石河幹明・富田成文による福沢諭吉伝においては、堀越安平のもとを攘夷浪士(山田一郎であるとは記載されていない)が訪れて店を閉めるように要求したところ、堀越は知遇であった福沢諭吉を通じて新徴組隊長(原文ママ)であった中山信安に浪士の取り締まりを打診した。豪胆かつ奇人として知られた信安はこれらの浪士を「片付けた」ので安心しろと堀越に伝えたとする記載がある。先に挙げた富田成文の中央公論におけるコラムにもほぼ同じ経緯でこの逸話が掲載されており、この話において中山信安は中山八郎であり、福澤諭吉適塾時代の同期生であったと語られている。
 また、「蘭学のころ」においては逆に、堀越安平のもとを訪れて店を閉めろと要求した攘夷浪士が中山信安であったとして書かれており、福沢諭吉の薫陶を受けた信安は考えを改めて緒方洪庵に師事し、開国派に転じたとされている。だが、信安が安政2年に適塾に入塾していたことはほぼ間違いがないと思われるため、この記載は誤解を含んでいるものであろう。
 しかし、こちらでも富田成文の筆によらない事件として堀越安平と中山信安のかかわりが記されていることは確かであり、山田一郎らの起こした事件を新徴組調役であった信安が取りなした可能性は、ありえないとまでは言いきれない。
 また、農商工公報においては堀越安平が約束を守って店を閉めたのが文久3年の6月、つまり山田一郎らが店に押しかけたのが文久2年ということになるが、文久2年にはまだ新徴組(文久3年5月)どころか浪士組(文久3年2月)すら結成されておらず、福澤諭吉も欧行中である。山田一郎が新徴組にいたのは文久3年の5月から7月までの短い期間であるため、もしこの騒動があったと仮定しても、それは文久3年の出来事であったと推測する。


>謎3 山田一郎が託した川野健之助(西山三蔵)について
 先に述べたとおり、山田一郎らは文久3年の7月に新徴組を脱しており、これらに関する記載は根岸友山の御用留にも見ることができる。日付を鑑みるに7月の下旬であったようだ。
 これに関係があると思われる記載が、小山松勝一郎の「新徴組」に書かれている。
  文久3年3月に水戸藩主水戸慶篤が上洛するのに従った従者の中に西山祐之助という人物がいた。彼が京都に来たついでに清水寺知恩院等を観光し、円山の茶店に入っていたところ、佐久間権蔵という浪人に絡まれた。酔っていた佐久間に対し、西山は相手をすまいとしていたが、佐久間は鉄製の燭台で西山を殴りつけ、逃げ去った。西山は打ち所が悪く死亡してしまった。その後、逃亡した佐久間は江戸にやってきて新徴組に入隊した。
 佐久間は外宅しており(新徴組には屯所があった)、素行を改めることなく吉原などで新徴組の名前を使い無銭飲食をしたため、三笠町屋敷の土蔵に繋がれていた。
 ここへ、西山の遺児である十三歳の少年がやってきて父の仇として佐久間を討ちたいと願い出た。山田らはこれに強く共感し佐久間を討たせるべきだと新徴組支配の河津三郎太郎に意見書を出した。これがなかなか聞き入れられなかったため、山田らは次第に反発を強めていった。7月24日、河津は山田らを柳原屋敷で謹慎を命じ、自らも7月28には柳原屋敷を訪れ、山田らに厳重に慎むよう申し渡す。だが、7月30日。佐久間権蔵が三笠町屋敷の土蔵を破り脱走してしまう。これを追う形で山田らも8月4日に手紙を残して柳原屋敷を出奔。そのまま隊を脱した。
 ……というようなもの。
 この事件の出典となるものが「新徴組山田岩城木村出奔一件」として巻末の参考文献にあり、清河八郎記念館に所蔵されているそだが、「歴史研究」660号の小高旭之先生の論文では同館に問い合わせたところ現在所蔵なしという回答だったことが記されている。後年自分も記念館・鶴岡市立図書館などを訪れて確認したが、該当する資料はみつけられなかった。
 これを裏付ける史料として、新徴組の一番組の小頭を務めていた根岸友山の「御用留」元治元年8月6日に、木村、山田、岩城と他一名が謹慎中の屋敷を抜け出して行方をくらませたことが記されている。ここには西山祐之助の名前はない。
 しかし、「杉浦梅潭目付日記」8月4日のところにもこれと同じ報告を記した記事があり、こちらでは「八月四日遺書亡命 酒井家臣 山田一郎 岩城太熊 木村久之丞」とあり、それに続いて「西山勇之助倅西山密蔵十三歳 讐 佐久間権蔵」と記されている。
 ここから、新徴組の記載はかなりの確度で正確であろうことが推測できる。
 さらに、「筑波義軍旗挙の前夜」において、新徴組を脱走した山田一郎ら水戸において滞在していた紀州屋の女将に聞き込みをした記載があり、山田らの風貌や振る舞いが生き生きと記載されているのだが、その中に川野健之助なる人物が紹介されている。彼は行方郡延川村の出身で、父は京都で酒の上で志筑藩の者に殺され、親の敵を討ちたいために紀州屋の女将の世話で山田の養子分となったと記されている。「筑波義軍旗挙の前夜」では、太平山の天狗党を脱した山田一郎が、幕府に自訴をする前に川野を中山信安の元に託したこと、信安には子がなかったので川野を養子とし、浅草の左衛門河岸に土地を買った。また後年、信安が茨城権令になったときに、川野は裁判官として水戸にいたと記されている。
 天狗党の動向について記載した波山記事によれば、宇都宮の丸子小兵衛方を宿とした浪人の名前の中に、山田一郎と共に「西山健之助」なる名前が確認できる。
 その直後の日光山参拝の資料のところ「第五 浪士蒼海九郎等先觸寫(さきぶれうつし)」の中に、「水戸 蒼海九郎 高山五郎 西山三蔵」の名前を見つけることができる。さらに櫻井倫常による「太平山風聞書」には、山田一郎が田島某、佐藤某、西山某、渡辺某と他二人の七人、外送りのもの三人の計一〇人で筑波を出立した記載がある。このうち田島某は田島幾哉、佐藤某は佐藤継助、渡辺某は渡辺欽吾で、山田とともに自訴した4人のメンバーと思われる。
 すくなくとも太平山挙兵以降、日光参拝時の山田一郎は西山三蔵(西山健之助?)と呼ばれる人物とともに行動しており、太平山を脱走したときにもこの西山某を伴っていた。しかし自訴したメンバーの中に西山なる人物は入っていない。
 そして、行方郡は水戸藩の領地であり、川野健之助の父は京都に行っていたことから、おそらく水戸藩の武士であったのではないかと推測できる。
 新治県官員録には中山権令下の人員として河野信義(旧名謙之介)という人物が確認でき、嘉永6年の正月生まれと生年が期さされている。元治元年においては満年齢で12歳前後である。
 以上の符合から、川野健之助=西山密蔵であり、山田一郎が後事を託すに相応しい人物として交流があったのが中山信安であったという推測は、かなりの強度を持ったものではないかと考えられるのだ。 


>謎4 江戸の攘夷家「中山安太郎」について
 「筑波義軍旗挙の前夜」川野健之助の条において、山田一郎が川野健之助を託した中山信安は天狗党に与したものであると記載がある。攘夷浪士として活動のあった山田一郎らはともかく、新徴組の調役として幕府側の人員であった信安が天狗党に与することは考えにくいと思われていたが、そこで気になるのが波山記事に登場する「江戸の攘夷家 中山安太郎」である。
 新徴組を脱した山田一郎が藤田小四郎と出会い、同志を連れて筑波山の挙兵に駆けつけたというエピソードであるが、この中で山田一郎と行動を共にしているのが中山安太郎である。彼はこの場面にのみ現れ、山田が同志を引き連れて水戸に向かった時には名前が見えず、以後も姿を現さない。小高旭之の「水戸天狗党の将山田一郎」においてもその正体は不明とされているが、歴史読本第12巻の読者向けアンケートのコーナーで、「茨城県の初代の県令であった中山安太郎氏の御子孫の現在の住所並びに御氏名を御存知の方は是非お教え願いたいと思います」と呼びかけている記載があり、少なくとも中山信安に中山安太郎との呼び名があった可能性が出てきてしまっている。
 確証とするには弱いものでしかないが、山田一郎と中山信安の間には少なくともお互いを信頼できる相手と思えるだけの交流があっただろうことは推測され、あるいはやむにやまれぬ事情で新徴組を脱した山田一郎に、信安がなにかしらの口添えをした可能性は否定できないのである。

 

 

佐渡奉行組頭就任
 元治元年。中山信安は佐渡奉行組頭に就任し、武鑑に名前を残す。妻幸子が薩摩出身であり、そのことを理由に離縁しようとしたが、幸子は絶食してこれに抗議したため、上役の認可を得て離縁を取りやめたという話が伝わるが、前述の通り幸子は宮津藩の医師嵯峨根重季の娘であり、嵯峨根良吉が薩摩藩士となったのは慶応元年以降のため、この逸話は創作の可能性がある。
 後に妻の幸子が佐渡を離れ新潟の港に上陸した記録があることや、幸子が江戸にもどり、江戸の状況を飛脚等を使って佐渡に知らせたという話があるため、妻子を伴って佐渡に向かったと考えられる。

 

>謎5 旗本中山家1150石とのかかわり
 安政5年9月、中山家七代の中山勘右衛門信敏が死去。同年12月に中山錦之助が中山家を継いでいる記載がある。文久・慶応にかけて、中山家の知行においてはこの中山錦之助の名前が確かに確認できる。しかし中山家墓誌にはこの錦之助の記載がなく、8代として中山修輔信安の名がある。
 武鑑においては信安の家は勘右衛門家とは別に記載されており、佐渡奉行組頭になった時点では明確に別家であったと言える。信安は明治2年から浅草左衛門町の旧酒井左衛門尉屋敷に邸宅を持っており、愛宕下の中山勘右衛門家とは邸宅も異なる。
 しかし墓誌においては信安は七代信敏や八代?錦之助ではなく、六代信珉の子として記載され、しかもその墓誌においては亡き父、亡き母の記載である。信安が死去した明治33年以後に作られたものとすると、信安は死んだ信珉の子として中山家の後を継いだことになる。
 そして、少なくとも幸子の死去まで信安の屋敷は左衛門町に存在していた。

 では信安は勘右衛門家とは無関係であったのかというと、そうとも言いきれない。まず錦之助がなぜか勘右衛門家の通字であるはずの「信」の字を名乗らず、錦之助のまま家名相続や知行管理を行っている。一方で信安には見ての通り信の字があり、少なくとも明治5年の新治県参事に任命された時点からこの名前を使用している。
 遡れば佐渡年代記にある祖廟斎盟記にも、中山修輔信安の印がある旨が記載されている。
 錦之助は明治2年の徳川幕臣静岡藩移住に伴い、静岡に移住した可能性がある。

 

 

8組頭として
 竹川龍之介が島内を巡視した記録があり、組頭は奉行に次ぐ地位として重鎮の扱いを受けている。一方で島内の対応をしており、日米和親条約に基づく新潟港開港に伴い、底浅で大型艦の出入りが難しい新潟港の補佐として佐渡の夷港(現在の両津港)の整備を進め、また慶応3年には英国公使パークスを奉行所で出迎えており、その時の記録がアーネスト・サトウの日記にも残されている。
 また、英国船が牛肉を求めた対応に対して応じるなど、国際的な対応をしていた。ここからも、信安が堀越安平を殺害しようとして福沢諭吉に蒙を解かれ、緒方洪庵に師事したという話は怪しいものであると思われる。
 司馬陵海を招いて佐渡蘭学を広めようともした。

 

明治維新
 信安の明治維新における佐渡での動向は、佐渡叢書、またそれを資料として編纂した佐渡の百年に詳しい。
 慶応4年2月、佐渡に本土の情勢を知らせる船が着いた。この年の冬の新潟・佐渡間の海は荒れており連絡が滞っていたとされている。この年の1月2日に鳥羽・伏見の戦いが勃発し幕府軍は敗退。徳川慶喜江戸城へと逃れた。2月には慶喜は謹慎、会津藩松平容保会津へと去っている。
 幕府が既に形を保てなくなっているという知らせは、幕府直轄地の天領である佐渡を大きく揺るがすものであった。
 3月16日には会津から、翌々日の18日には越後の総督府から、それぞれ使者が来訪し、佐渡の黄金を引き渡すように要請されている。
 これに対し、すでに佐渡の金銀は江戸に送ってしまったと回答、さらに奉行所から会津藩、越後に使者を派遣した。
 4月。佐渡奉行鈴木重嶺が幕府の意向を伺うとして佐渡を退去する。これに伴い奉行所の家族が江戸へと退避している。信安の妻子もこれに含まれており、 などに記載が残る。
 鈴木奉行が新潟港に着いたと同時、その帰りの船に乗って佐渡に乗り込んできた者たちがいた。彼らは会津藩兵を名乗り、佐渡に駐留することを宣言したが、これは水戸藩にあって追い出された市川勢であり、佐渡には軍用金を求めて来島したことがわかっている。信安らも彼らが会津の兵ではなく水戸藩士であることには気付いていたようである。
 信安は佐渡島内の藩士が名を連ねた迅雷隊を組織。佐渡島内で狼藉を働かれることを危惧し、また佐幕意識の高まりを制御する必要を感じたことが目的であったろうか。島内の治安維持は佐渡のものが行うとして「会津藩兵」と折衝を重ね、彼らを島外に退去させた。
 5月。迅雷隊の組織とは裏腹に行動に出ないことを訝しんだ山西百太郎(後の山西敏也)らが信安に反発、島外へ脱出するなどの騒ぎも起こる。

 7月、新潟戦線において佐渡に停泊していた順動丸が寺泊沖海戦で第一丁卯丸、乾行丸と交戦。座礁の後爆発自沈する。制海権を得た新政府軍はそのまま佐渡奉行所のある相川港へと進駐。停泊していた桑名藩の船から積み荷の大砲やミニエー銃を鹵獲した。
 この時、乾行丸の艦長を務めていた薩摩藩北郷久信は信安を艦上へ呼び出し会見を行う。堂々とした受け答えで応じた信安に感じ入るとともに、薩摩藩ということで話題に出した信安の義兄の嵯峨根良吉について、北郷が旧知であったことから意気投合したという話も伝わっている。

 新政府から総督として任命され、佐渡奉行所が佐渡の統治を行うことが確定し、ようやく安堵したであろう信安であったが、またも騒動が持ち上がる。江戸浪人とされる佐藤六郎と佐渡相川の医者の息子とされる大熊忠順らが、奉行所佐渡金山の金銀をほしいままとし、武装して新政府に反旗を翻す企みをしていると越後総督府に訴え出たのである。
 六郎らは民意を受けたと称していたが、その証拠となる連判状などをもっていなかったため総督府はこれを怪しみ、いったん六郎らを佐渡へと送り返した。しかし六郎らはこれを逆手に取り、総督府の軍艦で送り返された自分たちは新政府の後援を受けていると主張し、年貢半減や奉行所の不正を糺すと称して農民たちを集め、連判状への強制的な押印を迫る。
 これらの状況は奉行所の知るところとなり、信安は佐藤六郎を捕縛。しかし大熊忠順はこれを逃れ、再び総督府にこれを訴え出た。大熊らの訴えの最中に奉行所からも経緯を説明する人員が到着。判断に迷った総督府は、奥平謙介を佐渡へと派遣する。
 大熊の主張の確認のため、奥平らは佐渡相川各地で強制捜査を行うが、黄金や兵器などは発見されなかった。信安は単身で奥平の元へ出頭するように求められる。
 北郷久信との会見とは異なり、本当に一人だけで現地に赴いた信安と奥平の間でどのような会見がなされたかは定かではない。奉行所は奥平に相当不振を抱いていたらしく、武装して信安の救援や護衛に向かうことを考えていたという記録が残る。
 結果、大熊、六郎らの密訴は虚言であったことが明らかになり、大熊忠順も捕縛。二人は斬首される。以後、佐渡の統治は奥平総督へと引き継がれ、翌年までさまざまな政務の引継ぎを行った信安は翌明治2年2月に佐渡を退去する。佐渡の組頭として戦火から民を守るため奔走した信安を慕う佐渡のものは多く、彼の烏帽子をもらい受けて神社としてまつったという記録が残されている。

 

>謎5 佐渡の黄金
 この時、入れ違いに江戸へと送られたという佐渡金山の金銀であるが、事実そうであったのかは疑問が残る。佐渡に鳥羽伏見の敗戦の報がもたらされた時点ですでに江戸での混乱は明らかであり、通常通りの金銀の配送が行えたのか。また、信安の従六位ではは明治政府に佐渡の金銀を引き渡したことによってその業績を評価されている。
 佐藤六郎らが奥平謙介に行った密訴についても、讒言によってありもしない黄金を探させたのだろうか。佐渡の金銀がいまだ島内に存在し、それを奉行所が保管しているからこそ成立した疑惑であったようにも思える。
 同様の指摘を   の  も行っている。

 

 

10静岡藩での活動
 明治2年に佐渡を離れた信安は江戸の浅草左衛門町に戻ったことが推測される。東京都史講では「私儀により明治2年より酒井左衛門尉邸内に居住し」とある。
 その後、信安の名前は箱館戦争の降伏人を引き受けに向かったメンバーの中に登場する。後の静岡権令関口隆吉らに交じってその名前があり、大鳥圭介日記の注釈によれば、信安はこの東京に向かった側に入っていた。
 幕臣の一人として静岡藩に移動していた可能性が高い。静岡藩藩士録には信安の名前は見つからないが、茨城県参事になった信安を静岡県人、浜松藩士とする文献はこの時の記録に由来するのではないか。

 

 

11新治県参事→新治権令→茨城県
 明治5年。信安は新治権参事を任じられる。これと前後して公文書には「中山修助」が消え「中山信安」の記載が増えていく。新治権令を任じられ、本格的に県政を行う。
 政策について、租税対策について
 新治権令としては先に     がいるがいずれも短期間の任期であり、現地に派遣されていたかは定かではない。信安は新治県水戸に邸宅を持っている(浅草左衛門町の邸宅は維持されていて、妻幸子と家族はこちらに在住していた可能性がある)。
 小学校の敷設、病院の展開(長与仙斉を通じている)もともと緒方塾の出身であり、教育や医療については並々ならぬ関心があったと思われる。
 曽我秀三郎(遠藤秀三郎)を養子としたのもこの時期。また新治県官員録には河野信義、泉村島吉の名前がある。
 租税問題においてこれを問題視されたが、西郷隆盛らの下野に前後してこれらの問題は不問に処されることとなったため、信安は県令を継続することとなった。
 この後、新治権は合併されて茨城県となり、信安はそのまま県令を継続する。

 


12那珂郡農民一揆
 地租改正における反発は並々ならず、茨城県でもそれが起きた。
 地租改正に対しての抗議文を提出するが、信安はこれを受け取らず冷たくあしらった。……とされているが、この時の抗議文は茨城県下における地租改正への猶予を求めるものではなく、全国の租税体制について論じた壮大なもので、国家そのものに対して訴えかける内容となっており、県令が対応できる責務を超えてしまっている。信安がこれの受け取りを拒否したこともそれなりに理由あってのことと思われる。
 また、先の租税対策において信安は県内の窮状を鑑み、中央の指示を曲げて茨城県独自の対応を取ろうとした結果、引責辞任にまで追いつめられる経験をしており、これがこの対応に関係した可能性は否定できない。

 一揆側は決起し、行動を開始した。この一連の騒擾においては農民側に視点を置いた資料と、県政側の行動を記した資料で大きく評価が分かれており、前者では悪逆非道の行政が農民を苦しめ続けたという評価がなされている。租税改正の指示が維新後なお窮状にあえいでいた農民たちを追い詰めたことは事実であろうが、決起した農民たちは説得・解散の指示に訪れた警官だけではなく、派出所に在籍していただけの警官まで襲撃して殺害し、その首級を掲げて行進するなどの行為に及んでおり、これらの記述は前述した農民側の立場の資料にもしっかりと記されている。
 県政側にしてみればこの一連の決起と行進が反乱・内乱に近いものと捉えられた可能性は否定できず、事実信安は宇都宮鎮台に鎮圧のための軍隊の派遣を要請している。
 しかし鎮台からは派兵を断られ、農民たちがなお行軍を続ける状態に県庁は騒然となった。信安は(   の献策であったと記す文献がある)、模範囚であった  らを解放し、彼らに命じて首謀者の暗殺を実行させる。
 世にいう囚人抜刀隊である。
 世にも恐ろしき殺人のプロのように描かれはしているが、潜入こそ混乱に乗じて脱獄し、面識のある農民たちを通じて内部に入り込むことに成功したものの、深夜に敵味方の区別を行えない、標的である何名を識別できずに取り逃すといった状態に陥っている。

 全般的にこの対応には批判的であり、悪逆非道を成した信安の失脚を自業自得として述べる報道も少なくない。また、模範囚たちのその後については逃亡されてしまったとか、県庁に戻ったところで口を封じられたなどの記事が残るが、事実として彼らは県庁へ帰還し、当初の約束通り刑を減じられた行政文書が残る。
 信安はこれらの状況が報道されると前後して騒擾事件の顛末を報告し、責任を取る形で県令を辞した。

 

13長野県少書記官
 楢崎寛尚県政下の長野県に向かい、少書記官として活動の記録を残す。茨城県令以後の信安についてはその後歴史の表舞台を去ったとする記録も多いが、少書記官として活動は手広かった。
 福井茂兵衛を招いての検査、宮崎信友・ひいては楢崎権令との対立、島崎藤村の父との対応。
 権令との対立の結果、信安は少書記官を辞して東京に戻る。

>謎6 「生首三個」の実情

 

 

14その後の中山信安
 この後の信安についてはもう出仕する気はないと述べるなどの記録があり、ほとんどの記録がない。浅草左衛門町の改名運動や家の前の土地を買う話などがある。
 わしをたかつむの剣槍柔術永続結社の副社長として名前が記録に残る。衰退していく剣術、槍術などの保存を目的として立ち上げられ、大々的に宣伝がなされた記録があるが、活動は長続きしなかった。大徳武会に先んじる組織理念であり、信安が剣術について関心を向けていたことが推測される。
 明治33年に死去。