調べたことまとめ

歴史(主に日本史)について調べたことをまとめます。

中山信安の経歴2(適塾時代)

適塾時代の中山信安


 「明治過去帳 : 物故人名辞典」等をはじめ、中山信安の経歴には緒方洪庵適塾で学んだことが記載されているが、肝心の「適々斎塾姓名録」に中山信安(中山修輔)の名前は確認できない。
 しかし明治7年の緒方洪庵10回忌の法要名簿には、福澤諭吉、長与専斎といった主立った塾生と共に中山信安の名前が記載されており(「適塾の人々」)、「医学文化年表」では緒方洪庵門下の政治家として茨城権令中山信安の名がある。
 また、後に信安の養子となった尺秀三郎が地震の少年時代を述懐する「随感録」においては、信安が適塾に在塾していた福沢諭吉が弁当に入れた沢庵の尻尾を囓っていたのを他の塾生から揶揄われたところ、見事に切り返してみせた話などで福澤の人となりに語ったことに言及がある。これらの複数の史料からみても、信安が適塾に在塾していたことはほぼ疑いがないと言っていいだろう。
 雑誌「適塾」においての塾生調査でも、中山信安(修輔)の名が姓名録にないことは言及されており、上記の資料などを元に中山信安の経歴が開設されている。適々斎塾姓名録が全ての塾生の名前を記載していなかったことも事実であり、信安はそうした塾生であった可能性があるだろう。
 さて。信安と共に適塾に在塾していたのが丹後宮津の嵯峨根良吉である(嵯峨根良吉に関しては「龍馬より早く新時代構想を建議した男 嵯峨根良吉」が非常に詳しい)。信安は後に良吉の妹である幸子と結婚した。信安は良吉は以後も家族ぐるみで親交を続け、明治維新の最中に薩摩で良吉が没した際はその遺児である不二郎と鹿之助を引き取り、東京の自宅で養育している。鹿之助は信安の養子となったが、五歳で夭折している(谷中霊園墓誌より)。

 さて、この適塾在塾時代を語る上で外すことができないのが適々斎塾姓名簿に名前のある「中山八郎」である。安政2年(1855年)10月10日に入塾したこの中山八郎は、江戸深川御徒組屋敷・中山桂輔倅という経歴を持っている。中山八郎は翌安政3年(1856年)に適塾を退塾し、10月21日には越前大野藩の洋学館に入校している。このわずか二週間後、11月11日に中山八郎は「親大病ニ付退塾」しており、その後の行方はわからない。
 中山八郎については、現状これしか資料上に名前の登場しない適塾生であり、雑誌「適塾」の塾生調査でもそれ以前・以後の経歴が不明とされている。
 この中山八郎こそが、中山信安ではないかと考えられるのだ。
 証拠はいくつかある。まず石河幹明「福沢諭吉伝」において、中山信安は福澤諭吉適塾時代の旧友であり、旧名を八郎といったと記載がある。

中山信安といふ風變りの舊友があつた。中山は元御家人で舊名を八郞といひ

 また、石川幹明とともに福澤諭吉伝の編纂、福澤諭吉研究に関わった冨田正文は「中央公論」のエッセイにおいて適塾の姓名簿を読んだ中で「中山八郎とあるの新調組取締である中山信安である」と断言している。
 信安=八郎であることを確実に示す史料は確認できていないが、少なくとも福澤諭吉研究において第一人者であった石河幹明・富田正文は中山信安=中山八郎であることを断言できる知識があったということになろう。
 また、先に述べた義兄の嵯峨根良吉の経歴もこれを裏付ける。中山八郎が安政2年10月に適塾を退塾し、大野藩の洋学館に入学したことはすでに述べたが、これに先駆け、嵯峨根良吉も安政3年7月に適塾を退塾し、大野藩洋学館に入校しているのだ。また、中山八郎が大野藩洋学館を退塾した安政3年11月11日に、嵯峨根良吉も同時に「急用ニ付」洋学館を辞している(「奥越文化」)。
 さらに、洋学館の学業記録では中山八郎の在籍地が宮津の蓬嶋郡と記載されている。これは嵯峨根良吉の出身地であり、適塾入学時の中山八郎の深川組屋敷という出身地はどこかにいってしまっている。

 中山八郎に関する記録は、緒方公案適塾への入塾と大野洋学館への入校・退校記録しかのこされておらず、その以前/以後の足取りはまったく不明である。
 適塾への入塾時期を考えると、安政2年10月2日(1855年11月11日)に江戸で安政の大地震が発生し、東條一堂の瑶池塾はこの地震で倒壊し、その跡地は千葉道場が吸収する形で再建されている。信安が上京したとするなら、この地震前後ではないだろうか。
 雑誌「適塾」における塾生調査においては中山信安(修輔)と中山八郎は別人として扱われているが、以上のさまざまな符合を鑑みるに、中山八郎は中山信安であると断定してしまっても良いのではないかと思われる。